鎌倉の執権である北条氏の覚え方

鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)には源頼朝が鎌倉幕府を開きますが、第2代将軍の源頼家は暗殺され、第3代将軍の源実朝も暗殺されました。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶しました。

その結果、将軍を補佐する役職である「執権」の職を独占した「北条氏」が将軍に代わって政治を行うこととなります。これを「執権政治」と言います。

このページでは日本史の入試問題に出る主な北条氏を紹介いたします。

北条氏の覚え方のコツですが、「名前」と「やったこと」と一緒に「キャラクターの絵」も合わせて覚えてください。

「キャラクターの絵」があるだけで、大分覚えやすくなっているはずです。

北条政子(ほうじょうまさこ)[1157年 - 1225年]

北条政子(ほうじょうまさこ)

鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の妻です。

執権には着きませんでしたが、頼朝の死後実権を握り、尼将軍と呼ばれました。

北条時政(ほうじょうときまさ)[1138年 - 1215年]

北条時政(ほうじょうときまさ)

鎌倉幕府の初代執権(在職:1203年 - 1205年)です。

北条政子と北条義時の父です。

北条義時(ほうじょうよしとき)[1163年 - 1224年]

北条義時(ほうじょうよしとき)

北条時政の子で、鎌倉幕府第2代執権(在職:1205年 - 1224年)です。

1213年に侍所の長官である和田義盛を滅ぼし、その後、義時は政所と侍所の長官を兼務して執権の地位を固めました。

1221年には承久の乱で後鳥羽上皇を破りました。これにより朝廷と幕府の二元支配の状況が変わり、幕府が優位に立ち執権政治の確立をもたらしました。

また義時に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流され亡くなりました。

北条泰時(ほうじょうやすとき)[1183年 - 1242年]

北条泰時(ほうじょうやすとき)

北条義時の子で、北条時房とともに初代の六波羅探題を務めました。

鎌倉幕府第3代執権(在職:1224年 - 1242年)。

1225年に評定衆を設置し、1232年に御成敗式目を定めました。

北条時房(ほうじょうときふさ)[1175年 - 1240年]

北条時房(ほうじょうときふさ)

北条義時の弟で、北条泰時とともに初代の六波羅探題を務めました。

1225年に初代の連署(執権の補佐役)となり、泰時を補佐しました。

北条時頼(ほうじょうときより)[1227年 - 1263年]

北条時頼(ほうじょうときより)

鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)。

1246年に鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経を始めとする反北条勢力が力をつけ、軍事行動の準備も始めたので、これを鎮圧し藤原頼経を京都に強制送還しました(宮騒動)。

1247年には宝治合戦が起こり三浦泰村とその一族が滅びました。

1249年に公正で迅速な裁判を目指して引付衆をおきました。

1252年に第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立しました。

1253年に建長寺を創建し、蘭渓道隆を招きました。

北条時宗(ほうじょうときむね)[1251年 - 1284年]

北条時宗(ほうじょうときむね)

鎌倉幕府第8代執権(在職:1268年 - 1284年)。

高麗を服属させたフビライ=ハンから、朝貢を求めて国書が来ましたが、黙殺しました。

1274年と1281年の2回に渡り元のフビライの軍が日本に攻めてきました(元寇)が、これを撃退しました。1274年に攻めてきた方を文永の役、1281年に攻めてきた方を弘安の役といいます。

1282年に南宋の臨済宗の僧である無学祖元を招きました。無学祖元は鎌倉に円覚寺を開きました。

北条貞時(ほうじょうさだとき)[1272年 - 1311年]

北条貞時(ほうじょうさだとき)

鎌倉幕府第9代執権(在職:1284年 - 1301年)。

鎌倉大地震の混乱に乗じて平禅門の乱で平頼綱を滅ぼしました。

北条高時(ほうじょうたかとき)[1304年 - 1333年]

北条高時(ほうじょうたかとき)

鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。

1325年、建長寺の再建費用を得るために元に『建長寺船』という貿易船を元に派遣しました。

以上がテストによく出る北条氏一覧です。

ぜひ覚えてください。