藤原氏の覚え方

歴史上に多数登場する「藤原氏」の皆さんですが、主な藤原氏を下記に記述しました。

藤原氏の覚え方のコツですが、「名前」と「やったこと」と一緒に「キャラクターの絵」も合わせて覚えてください。

「キャラクターの絵」があるだけで、大分覚えやすくなっているはずです。

飛鳥時代(592年 - 645年)

中臣鎌足(なかとみのかまたり)[614年 - 669年]

中臣鎌足(なかとみのかまたり)

名前に鎌の字があるので、キャラクターとして鎌を持たせています。

この中臣鎌足さんは645年に乙巳の変で中大兄皇子と共に蘇我氏を倒して、大化の改新を成し遂げた人です。

「なんなのこいつ。『藤原』氏の話って言いながら何『中臣』の話しだしてるの?」って思ってるかもしれませんが、この中臣鎌足、人生の途中で名前を藤原鎌足に変更するのです。ややこしいですね。

婿養子になったから苗字が変わったわけではなく、大化の改新後に天智天皇となった中大兄皇子に「名前変えなよ。藤原とかいいじゃん。お前今日から藤原な」的に藤原の苗字をもらったのです。

そう、この藤原鎌足(元・中臣鎌足)さんこそ、全ての藤原氏の始まり。

藤原不比等(ふじわらのふひと)[659年 - 720年]

藤原不比等(ふじわらのふひと)

この藤原鎌足の次男です。

「ふひと」って聞くと、人間じゃないっぽい気がするので、人間じゃないっぽいキャラクターです。まあ、私が描くキャラクター全部、ほぼ人間じゃないんだけど。

また、私が描く藤原氏のキャラクターは基本的に「富士(フジ)山の絵が描かれた藁(ワラ)」を着ています。だってフジワラだからね。

この藤原不比等さんは刑部親王(おさかべしんのう)と共に日本で初めての律令(法体系)である大宝律令(たいほうりつりょう)を編纂し、また奈良時代に施行された、大宝律令に続く律令である養老律令(ようろうりつりょう)の編集の中心ともなりました。頭いいんですね。

藤原宮子(ふじわらのみやこ)[? - 754年]

藤原宮子(ふじわらのみやこ)

藤原不比等の娘です。

この藤原宮子は第42代天皇である文武天皇の夫人になって聖武天皇を生みました。これが、藤原氏が天皇家の外戚(母方の親戚のこと)になる端緒となりました。

奈良時代(710年 - 784年)

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)[? - 740年]

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)

吉備真備や玄昉を政権から排除しようとして740年に藤原広嗣の乱を起こしますが鎮圧されます。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)[706年 - 764年]

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)

藤原不比等の孫です。

藁(ワラ)を巻いた富士山の中に栗(マロン)が……。フジワラノナカマロ。というような絵のキャラクターです。

この藤原仲麻呂は聖武天皇の皇后である光明皇太后の身の回りの世話をする機関である紫微中台の長官ですが、757年に養老律令が施行された頃には政権の権力を握っていました。さすが藤原氏。

757年に橘奈良麻呂という人がこの藤原仲麻呂の打倒を企てますが、失敗して滅ぼされています。

この藤原仲麻呂さんは第47代天皇の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を後ろだてし、淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という名前をもらいます。昔の人は天皇に言われて名前を変えがちですね。

藤原仲麻呂が恵美押勝の名を賜る

名前に「かつ」の文字が付くので、キャラクターに「とんかつ」要素を追加して、ブタの鼻にしました。

この頃、孝謙上皇が僧侶である道鏡を寵愛します。くだけた表現をするならば、メロメロにラブラブになります。

恵美押勝は孝謙上皇に「道鏡にメロメロにラブラブになるのは止めてください」と忠言するのですが、孝謙上皇の愛の暴走は誰にも止められない。

見かねた恵美押勝は孝謙上皇・道鏡に対して764年に「恵美押勝の乱」という反乱を起こしますが、鎮圧されました。

恵美押勝の乱

このあと孝謙上皇は淳仁天皇を廃位させて自身が再度天皇(称徳天皇)となり、道鏡への譲位を模索します。愛の力ってすごい。これに強く反発したのが藤原氏である藤原百川です。

藤原百川(ふじわらのももかわ)[732年 - 779年]

藤原百川(ふじわらももかわ)

藤原百川以外の貴族も皆反発してましたし、称徳天皇の死もあって道鏡は失脚しました。お疲れ様です、百川さん。

さて第50代天皇である桓武天皇が奈良時代の平城京から784年に長岡京に都を移します。

この長岡京の造営を主導したのが藤原氏である藤原種継です。

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)[737年 - 785年]

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)

が、この種継さん、785年に暗殺されます。犯人として疑われたのが早良親王(さわらしんのう)なのですが「濡れ衣だよ!」と怒って食事を拒否して死んだあと、長岡京を祟りました。

そこで、和気清麻呂(わけのきよまろ)が「平安京へ都を移しましょう」と桓武天皇に提案し、794年から始まったのが平安京を都とする平安時代です。

平安時代(794年 - 1185年頃)

藤原薬子(ふじわらのくすこ)[?年 - 810年]

藤原薬子(ふじわらのくすこ)

藤原種継の娘です。

第51代天皇である平城天皇の妃の母親でしたが、平城天皇の寵愛を受けるようになりました。

平城天皇が天皇をやめて太上天皇となると、薬子は平城に遷都することで平城太上天皇が重祚(一度天皇を辞めた者が再び天皇になること)することを画策し、第52代天皇である嵯峨天皇と対立しました。そして810年に「薬子の変(くすこのへん)」

薬子の変(くすこのへん)

で敗れ、平城太上天皇は出家、藤原薬子は自殺しました。

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)[775年 - 826年]

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)

嵯峨天皇から蔵人頭に任じられ、のちの摂関家の基礎を築いたのは藤原冬嗣です。

冬にコーヒーを注(つ)いでそうなキャラクター、フジワラノフユツグ。

藤原良房(ふじわらのよしふさ)[804年 - 872年]

藤原良房(ふじわらのよしふさ)

藤原冬嗣の次男です。

842年に「承和の変(じょうわのへん)」でライバルである橘逸勢(たちばなのはやなり)を蹴落とし、

承和の変(じょうわのへん)

866年には「応天門の変(おうてんもんのへん)」で。

応天門の変(おうてんもんのへん)

同じくライバルである伴・紀両氏を没落させました。

そして遂には臣下ではじめて摂政(天皇が幼い時や病気の時に天皇に代わって政務を行った代行者)の任につきました。

藤原基経(ふじわらのもとつね)[836年 - 891年]

藤原基経(ふじわらのもとつね)

藤原良房の養子です。

884年、光孝天皇の時にはじめて関白(天皇を補佐する令外官)になりました。

887年には宇多天皇に対して難癖をつける「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」を起こし、

阿衡の紛議(あこうのふんぎ)

関白としての政治的立場を強くしました。

藤原時平(ふじわらのときひら)[871年 - 909年]

藤原時平(ふじわらのときひら)

藤原基経の長男です。

遣唐使を廃止させたことで有名な菅原道真と対立し、901年に菅原道真を大宰府に左遷させます。学問の神様になんてことを……。

藤原忠平(ふじわらのただひら)[880年 - 949年]

藤原忠平(ふじわらのただひら)

藤原基経の四男です。

第61代天皇である朱雀天皇の時代に摂政・関白として実権を握り、第62代天皇である村上天皇の初期まで長く政権の座にありました。

安和の変(あんなのへん)

969年の「安和の変(あんなのへん)」は

安和の変(あんなのへん)

藤原氏が源高明を失脚させた事件として知られています。

藤原道長(ふじわらのみちなが)[966年 - 1027年]

藤原道長(ふじわらのみちなが)

甥でライバルでもある藤原伊周(ふじわらのこれちか)[974年 - 1010年]と

藤原伊周(ふじわらのこれちか)

権力を争って勝利し、4人の娘を中宮や皇太子妃としました。

後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇は藤原道長の外孫(嫁に行った娘の子)です。

藤原道長の外孫(ふじわらのみちながのそとまご)

また、現存する世界最古の直筆日記である『御堂関白記』(みどうかんぱくき)を記したことでも知られています。

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)

『御堂関白記』は現在国宝になっており、ユネスコ記憶遺産にもなっています。

藤原頼通(ふじわらのよりみち)[992年 - 1074年]

藤原頼通(ふじわらのよりみち)

藤原道長の長男です。

後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3天皇、約50年にわたり摂政・関白を務めました。

宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)

平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)

を建てたことでも知られています。

ちなみに平等院鳳凰堂の本尊である平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(びょうどういんほうおうどうあみだにょらいぞう)は

平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(びょうどういんほうおうどうあみだにょらいぞう)

寄木造技法の完成者として有名な定朝の作として知られています。

もちろんこの他にも藤原氏の血を引く人物はいるのですが、主な藤原氏はこれくらいでしょうか。

ぜひ覚えてください。